「お荷物事業部」が起死回生をかけて
見逃したテレビ番組を録画する。お気に入りの映画や音楽ソフトを楽しむ。世界で約9億台以上販売された「ビデオ・ホーム・システム」VHSビデオは、生活に潤いをもたらすアイテムとして、全世界に普及した。国内外のメーカーのほとんどがVHS方式を採用したことから、事実上家庭用ビデオの世界標準規格となった。
昭和40年代に入ってから家電メーカー各社は家庭用VTRの開発に着手。開発に成功すれば、カラーテレビに続く巨大な市場を独占できると言われていたからだ。ステレオやテレビを主力商品としていた日本ビクターでも、昭和45(1970)年にVTR事業部を発足させた。しかし、当時同社で製造していた業務用のVTRはほとんど売れず、在庫数は増える一方。会社の「お荷物」的な存在になっていった。そんなVTR事業部で家庭用VTRの開発にとりかかったのは、 当時の事業部長、高野鎮雄(故人・元日本ビクター副社長)。在庫を抱え悪戦苦闘していたものの、事業部のなかには研究部門から異動してきたビデオの技術者がおり、家庭用VTRの開発を目指し、高野を含め4人の開発プロジェクトがスタートしたのである。
松下幸之助からの太鼓判
プロジェクトでは開発の初期から、技術だけを優先することがないよう、はっきりとコンセプトを打ち出した。価格は家電製品並み、テレビと並べて置ける小型軽量化、無意味な性能の高さは追求せず操作が容易、すでに市販されているテレビに簡単につなげられる等。録画時間は、映画や当時最も人気が高かったプロ野球中継に合わせて2時間を目標に掲げた。開発過程では技術面において大きな壁が立ちふさがったが、高野はスタッフに急がせることはせず、また妥協も許さ ず、納得いくまで研究させたという。昭和49(1974)年、VTR開発競争のなかで一歩先を進んでいたソニーが「ベータマックス」なるVTRを開発したニュースが飛び込んだときも、スタッフは「自分たちの開発の方が勝っている」と思い、研究を続けた。最終的には約4年の歳月をかけ、昭和50(1975)年、ついに最終試作機が完成。ベータマックスが市場に出始めた頃である。仕上がりに自信はあったものの、慎重を期した高野は、師と仰いでいた松下幸之助 (故人・松下電器創設者)に試作機を見せることにした。そして「ベータマックスは100点。でもこのVHSは150点」というお墨付きをもらうのである。
企業を超えたVHSプロジェクトの呼びかけ
高野のねらいは、VHSを家電業界全体で普及させ、世界規格に育てること。ベータマックスに対抗するためにも、VHSを世に広める必要があると考え、発売 前にして日立やシャープなど、大手家電メーカーを次々に訪問。試作機を見せ、VHSの有用性を説き企業を超えたVHSプロジェクトの結成を呼びかけた。そ して昭和51(1976)年、VHS第一号機「HR-3300」が誕生。高野の働きかけで、他の大手メーカーもVHSの発売を表明していた。翌年にはアメ リカでも発売され発売から7年後には販売数がベータマックスを抜く。「ビデオはビクター」の地位を不動のものにしたのである。
後にソフトメーカーから大量のビデオソフトが発売されるようになり、現在のように映画でもコンサートビデオでも、家庭で気軽に鑑賞できるようになった。
その功績から「ミスターVHS」と呼ばれた高野は、「ビデオは感動を伝え、人々の幸せを育てる夢のある商品」と言い続けたという。その「夢の商品」は、昭和60年代には2世帯に1台が持つまでに普及して、家庭用ビデオの代名詞となった。 |